長満寺歴代住職
開山の乗圓院日真上人は京都の本法寺第15世日栖上人の弟子であったという。
ただ弟子であったということだけで、子弟いずれについてもいかなる人物であったかは知るべき資料がない。次の第2世住職から第6世住職までもまったく業績不明である。
◆開山 乗圓院日真聖人 元和9年2月2日 遷化
◆第2世 常住院日得大徳 寛永8年1月10日 遷化
◆第3世 正善院日仲大徳 寛永17年5月12日 遷化
◆第4世 正行院日春大徳 寛永20年6月27日 遷化
◆第5世 勧持院日賢大徳 承応3年9月22日 遷化
◆第6世 本隆院日言大徳 寛文8年9月25日 遷化
第6世代、寛文6年(1666年)に本堂および庫裡を火災によって焼失した。
同時にそれまでのあらゆる記録、古文書を失い、先師の遺業は闇の中に埋没した。
◆第7世 中興 圓乗院日悟大徳 貞享3年9月9日 遷化
中興と称されるに、寺門に対して大きな功績があったと推測する。おそらくこの時に焼失した本堂が再建されたものと考える。
◆第8世 圓教院日融上人 享保2年7月18日 遷化
師匠は、大田市大田町妙光寺の第16世智徳院日逮上人であった。
日融上人は弟子の育成に力を注がれ、記録でわかるだけでも↓
・三刀屋 妙法寺10世 本禅院日豊上人
・出 雲 連紹寺10世 大通院日順上人
・松 江 常教寺11世 禅智院日定上人
・京 都 勧持院 歴代 大仙坊日性上人
などの各上人の名がある。その他にも若年にして死去した沙弥が数名、過去帳に残されている。
日融上人は77才で遷化されたというから、当時としてはかなり長寿である。また、学徳兼備をうたわれた方であり多くの名僧知識が育っていったという点では、第20世本暁院日晃上人と双璧である。
◆第9世 大通院日饒上人 元文2年10月19日 遷化(62才)
日饒上人には弟子が一人ある。のちに三刀屋妙法寺第11世となった定廣院日慧大徳(知存こと41才にて遷化)がその人である。この院号の「廣」にはなにか法縁としての意味があるらしく
◆第10世 修廣院日要上人 宝暦14年1月2日 遷化
◆第11世 天廣院日覆上人 宝暦14年1月7日 遷化
などにもみられる。おそらく子弟関係があったと思われるが詳細は分からない。
ただ妙なことに、第10世は宝暦14年1月2日に遷化、そのわずか5日後の1月7日に第11世が遷化している。委細は不明である。
◆第12世 妙心院日義上人 天明元年7月13日 遷化 (66才)
◆第13世 領遵院日敬上人 享和2年10月26日 遷化 (御来屋にて)
なにか用事があって、隣国へ旅されたのであろうか。病でも得て亡くなられたのであろう。
◆第14世 諦了院日性上人 文政2年3月5日 遷化 (49才)
字は空如、自号を一止と称し説法すること2千余座に及んだという。1週間に1回の割合で説法されたとすると、休むことなく40年続けた勘定になる。俗姓は河野氏、阿波徳島の武士であったという。記録には「故あって長満寺に住職すること20年」とある。「故あって」とはどのような故なのかは、明らかではない。
◆第15世 了明院日歓上人 嘉永2年8月6日 遷化 (53才)
字は省我、和多見秋鹿屋長吉の三男として生まれる。当山に住職すること8年、次いで阿州徳島本行寺(文政13年寅9月転住)へ赴き、彼の地に在住すること20年の長きにわたったという。
◆第16世 顕明院日是上人 元治2年1月3日 遷化 (63才)
弟子に淳厚日旭法師(万延元年3月28日遷化)がいる。24才の時に京都で遷化している。
◆第17世 大慎院日経上人 安政2年11月6日 遷化 (32才)
字は宜寂という。平田上ケ分村 原屋勘四年の二男として誕生する。32才での遷化は当時でも若すぎるようである。
◆第18世 中興 知音院日響上人 明治2年5月18日 遷化 (42才)
字は知音という。平田上ケ分村 原屋勘四年の三男として生まれ、29才の年より42才まで14年間住職をつとめる。安政4年(1857年)に近隣から出火した火事のために本堂を焼失するが、直ちに再建を果たす。中興と称される所以であろう。
◆第19世 本精院日進上人 明治11年7月8日 遷化
松江桶屋町、浜井家の出にして、はじめ啓運山(慈雲寺)20世本明院日亮上人に就いていたが、日亮上人の遷化により、当山第18世知音院日響上人に就いて出家得度することとなった。
上人の実弟であり、弟弟子でもあった、瑞遠院日成上人は京都本圀寺(大光山)49世となる。
当山に格護されている、丈余の大曼荼羅御本尊は、この日成上人の肉筆である。
日進上人の住職中は、残念ながら寺門の運営意の如くならず、暫時衰退の微があったという。
◆第20世 本暁院日晃上人 明治43年8月1日 遷化
松田亮照師。出雲今市町成相家の出で、啓運山(慈雲寺)20世本明院日亮上人に就いて出家得度する。師僧の日亮上人は当時、平田多久大慶寺に在住していた。
明治10年、日晃上人は赤名の妙法寺より長満寺へ転住し、以来34年の間住職としてつとめる。師は人望厚く、後進子弟の教育にたけ、弟子も多い。
その主立ったものは
堺市 本山妙国寺 長 亮静師
成田市 妙福寺 福島亮宏師
東京 本松寺 吉義亮達師
当山21世 小林亮精師(本理院日学上人)
などがいる。
◆第21世 本理院日学上人 昭和18年4月2日 遷化 (64才)
小林亮精上人。師は松江市雑賀町売豆紀町に生まれ、4歳にして当山第20世日晃上人に師事することになった。長じて祖山学院、中柦林を卒業する。明治43年6月、当山住職となる。以来、寺門経営よろしきを得て、弟子の育成にも大いなる功績を残すこととなった。
岡野潮醇師
小林亮瑞師(当山第23世)
西尾亮遠師(平田 多宝寺)
橘 亮道師(平田 法恩寺)
の4師を世に送り出した。
◆第22世 妙貫院日信上人 昭和25年3月15日 遷化
岡本亮教師。師は鳥取県米子市岡本家の出にして、啓運山(慈雲寺)住職妙宏院日慈上人に就いて得度する。行学成道の後、松江市西津田町安楽寺住職となる。長満寺第21世日学上人遷化の後、後任住職決定までの3年間を安楽寺住職兼務としてつとめる。
昭和20年、能義郡広瀬町本成寺第29世として転住する。
◆第23世 玄妙院日教上人 昭和47年3月14日 遷化
小林亮瑞師。米子市岡本家の出であり、幼少にして当山第21世本理院日学上人の弟子となる。昭和21年5月20日、第23世住職となる。また同時に小学校に奉職し教育界に身を投ずる。以来、昭和44年12月に至るまで23年間住職として、あるいは教師として人心の指導に当たる。
第22世日信上人の実弟であり、第24世現院首小林哲朗の師父である。
◆第24世 現院首 樹光院日草上人
小林哲朗師。
立正大学卒業後、立正大学大学院修士課程英文学専攻修了し、昭和39年には、東海大学第一高等学校に教諭として勤務する。その後、昭和44年から長満寺の住職となる。
宗門内の役職もさることながら、多くの時間を宗門外の役職に捧げる。保護司・松江地方裁判所松江簡易裁判所民事調停委員・松江家庭裁判所家事調停委員等様々な社会貢献を行い、平成元年より就任した教誨師においては、長きにわたる功績を賞され、平成27年秋の叙勲【瑞宝双光章】を頂く。
◆第25世 現住職 深敬院日渓
小林正康。
特になし。
これから頑張る。